8月は、我が家の「命日月」です。二人の祖父、姉(2歳で死去)、そして母と4人の命日が続きます。 今回は母のことに触れたいと思います。しかし考えれば考えるほど、母親とはいかに大きな存在なのかと痛感し、追悼集を一冊献上する必要がありそうです。ここでは母のほんの一面を述べるに留めます。
昔々、私が若かった頃、ある時母は言いました。「私にとって、家族のために尽くすことが生き甲斐で、そのためには自分を犠牲にすることもいとわない」「親からそういう教育を受けてきたので」と。母はまさにそのように生きた人でした。母のあの言葉は何年経っても私の心にずっしりと残っています。
「良妻賢母」という言葉、今は滅多に聞かなくなりましたが、母はそれを絵に描いたような人でした。一方で私は、母には家族のためだけでなく、自分が本当にやりたいことをして欲しいと願ったものでした。
そういう母には、娘時代、コンサート・ピアニストになる夢がありました。母の父親(稲垣鉄郎)は、その夢を応援してか、ドイツへ出張した際に、娘(母)のためにシュタンウェイのピアノを購入して日本へ送らせたのです。母は、20歳までそのピアノで熱心にレッスンを受けていました。
私が物心ついた頃、母がベートーベンやショパンの曲を弾いていたのが、なんとなく耳に残っています。しかし母は結婚後、ピアニストになる夢を徐々に失っていったそうです。なぜかと聞いたら、「あなたのパパがピアノに全然興味がなかったから」と母は言っていました。
その後、日本は太平洋戦争に突入したので、母はピアノを楽しむどころか、一家で東京から秋田の山奥へ疎開することになりました。父親の形見であったシュタンウェイのピアノは、二束三文で手放したそうです。母にとっては断腸の思いだったに違いありません。
都会育ちの母にとって、疎開先の田舎暮らしは苦労の連続だったようです。ほんの一例ですが、山奥の家には水道がなくて、毎日、坂の下の泉まで手桶を天秤のように担いで、水汲みに行ったそうです。帰路は水の重さでヨタヨタ歩きになり、家に着く頃には水が半分くらいに減ってしまったそうです。無理がたたって母はとうとう身体をこわし、一時、義理の両親(当時、盛岡市在住)の家に身を寄せて、療養しなければならなかったそうです。
母の世代の人たちは、戦争がもたらす様々な苦難を強いられて必死で生きてきたのですね。それだけに、精神面で鍛えられたと想像できます。恐らく現代人が太刀打ちできない芯の強さがあるだろうと。
一方で、母には大正ロマンの香りを感じさせる一面がありました。いわゆるオシャレな人で、洋装、和装、どっちも粋に着こなしていました。欧米のファッション誌なども購読していたようです。母親自慢で恐縮ながら、長身で首が長い母は、ポスト印象派の画家、ヴイヤールの描く女性のイメージに近いと思っていました。(父親に似た私は、ヴイヤールの女性像とは似ても似つきませんが!)
母は又、手先が器用だったので、私には数え切れないほど、洋服を縫ってくれたり、セーターを編んでくれたりしました。戦後、物がない時代のことでした。今でもよく覚えていますが、母は赤いサンダル・シューズをどこからか入手して来たのです。そして私に履かせると、嬉しそうに眺めながら、「貴女にこういう格好がさせたかったのよ!」と満足げに語っていました。
今思えば、そうした細やかな母親の愛情を、私は一体どれだけ分かっていたのか、感謝していたのか、甚だ疑問があります。命日に際して母に謝りたい気分です。
最後に、8月には姉の命日もあると述べましたが、母にとっては最愛の娘を亡くしたことになります。母の父親(私の祖父)の命日が8月12日、それから一週間も経たないうちに娘・恵美子(2歳)は肝臓がんで命が尽きました。一週間に2回も葬式を挙げた母に対して、親戚の人たちはかける言葉もなかったと聞きました。
恵美子の死去について、母はあまり話そうとしませんでしたが、晩年あえて私が聞いたとき、「恵美ちゃんは、痛みで苦しんでいて、見ていても可哀想で、亡くなった時には、痛みから解放されて良かったと思った」と語ってくれました。そして「恵美ちゃんのことを、あの世でお祖父様が待っていて下さると、そう思えば、安心でもあった」と。
母の命日(8月23日)は、母が72年ぶりに愛する我が子・恵美子と天国で再会した祝うべき日とも言えるのです。
(鈴木剛子記)