1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生し、一瞬にして神戸の街が崩壊しました。数千名の尊い命が奪われ、日本中が衝撃を受けたあの日から30年。今でも、テレビで見た衝撃的な映像が脳裏に焼き付いています。
当時、私はイタリアのミラノに出張中で、ホテルのテレビニュースでこの大災害を知りました。初めて目にした映像は、炎と煙が立ち込める暗闇、消防車やパトカーが駆け回る様子でした。どこかの国の戦場かと思いました。それが日本の地震の報道だと知った瞬間、胸に不安と動揺が押し寄せたのを今でも覚えています。
GCCのHP リニューアルを記念して、「グリーフの窓」を開くことになりました。この節目にあたり、私の脳裏には、開設15年、その間にお会いした大勢のクライエントさんや受講生のことや、その方々が語って下さった喪失物語のことなどが、次々と浮かびます。どなたのお話もユニークで、カウンセラーとして支援の手を差し伸べながら、実は、私が人生について貴重な学びをさせていただいたと痛感するのです。
ある意味で、普通の人の何百倍もの人生を生かしていただいたような、不思議な気持ちになります。そう言いたくなるほど、GCCのカウンセリング現場も教室も「本音の話」に終始し、「死別」や「苦しみ」や「生き方」についての話題で熱気にあふれていました。ここでは、どんなに悲劇的な出来事でも、バケツいっぱいの涙でも、周囲は共感的に受け止めます。オンラインになった今でも、それは変わりませんが、GCCの主催者である私を信頼して、ついて来てくださった皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
さてこれから「グリーフの窓」では、こうしたGCCの15年の歴史から学んだことを中心に、最近のホットな話題も交えて、山あり谷ありの人生に、フィット感をもって生き抜いていくためのヒントを、ご紹介したいと思います。
1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生し、一瞬にして神戸の街が崩壊しました。数千名の尊い命が奪われ、日本中が衝撃を受けたあの日から30年。今でも、テレビで見た衝撃的な映像が脳裏に焼き付いています。
当時、私はイタリアのミラノに出張中で、ホテルのテレビニュースでこの大災害を知りました。初めて目にした映像は、炎と煙が立ち込める暗闇、消防車やパトカーが駆け回る様子でした。どこかの国の戦場かと思いました。それが日本の地震の報道だと知った瞬間、胸に不安と動揺が押し寄せたのを今でも覚えています。
11月23日は「グリーフを考える日」として制定されました。この記念日は、関西学院大学「悲嘆と死別の研究センター」が発信元となっています。今年は制定1周年を記念し、無料オンライン講演会などのイベントが開催される予定です。詳しい情報はこちらをご覧ください。
秋たけなわ、また秋は学会のシーズンでもあります。私は9月に「日本自殺予防学会」(https://www.mcmuse.co.jp/jasp2024/)、10月に「日本マインドフルネス学会」(https://mindfulness.smoosy.atlas.jp/ja/JAM11)へ参加しました。どちらも久々の対面の参加でした。少し遅くなりましたが、まずは「日本自殺予防学会」について報告したいと思います。
トラウマ的グリーフとは、交通事故、火災、自然災害、自死、犯罪など、突然で想定外に起こる死に伴って経験する過激なグリーフのことを指します。愛する人の死が凄惨なイメージを伴うため、遺された人はトラウマ(過度なストレス)を負い、その影響に長いこと苦しみます。
トラウマ的グリーフは、早期にカウンセリングなどの介入が必要とされます。一人で抱えるには大変すぎるからです。GCCに来談された方々の中にはそうしたケースが少なくありません。
前回、本学会で、King’s University College死生学のビジョン・ミッションは今こそ必要で、有意義であると書きましたが、そのことについて続きを記します。
まず「ビジョン」は、『死とグリーフに関するリテラシー(識字)を地域社会と全世界に普及させる』です。
その意味は「死とグリーフ」の問題を専門家の研究テーマと限定せず、一般の人々が基礎知識を身につけ、死とグリーフにフレンドリーな社会を実現するということです。
そしてミッションは、『死をメディカライズする傾向を是正し、死を人生の一部として認識すること』 『グリーフをメディカライズする傾向を是正し、グリーフをノーマライズすること』です。
『メディカライズ』とは、死を医療の失敗と見る傾向や、グリーフ反応を精神疾患と見る傾向を指しており、それらを正すようチャレンジすると唱えているのです。
3月2日及び3月3日、京都にて、『第6回グリーフ&ビリーブメント学術大会』が開催されました。表題は「喪失の悲しみを支えるということ:ケアの原点とパラダイムシフト」*
全国から臨床心理士、カウンセラー、社会福祉士、介護士、医療者、宗教家、研究者など500名余り集まり、5年ぶりの対面のカンフェランスは熱気に溢れていました。
年初に当たり、新年が皆さまにとって、平和で希望に満ちた一年となりますように、祈念します。
日本は新年早々、能登半島地震、飛行機事故と災難に見舞われ、心が傷みます。
災害や事故の犠牲になられた方々を思い、心より哀悼の意を表します。
また被災された方々が、一日も早く安全・安心な日々を取り戻されるようお祈りしています。
11月8日は夫・鈴木昌平の命日、そして今日11月27日は父・稲垣稔の命日です。
昌平が亡くなって29年、父の没後39年が経ちました!そんなに時間が経ったなんて信じられません。夫の死後、「自分一人では生きて行けない」と本気で嘆いた私でしたが、こんなに長く生きたのですね。一生懸命でした。感無量なり。
秋たけなわ。アート、ミュージック、読書などじっくりたしなむシーズン到来です。私は今週、パイプオルガンのコンサートとピアノリサイタルに出かけ、音楽に心を洗われました。
日曜の夕べ、築地の聖路加チャペル(聖路加国際病院附属)で、『パイプオルガン奉献35周年記念』コンサートがありました。夕の祈りの時間に数名の専属オルガニストたちが崇高なオルガン曲を演奏してくれました。その一人、小野田良子さんとは旧知の中。彼女の奏でる音楽は水の流れのようにスムースで、透明で、心地よく、まるで桃源郷に誘ってくれるようでした。
近年、日本の夏はまさに亜熱帯地方のようだと言われていますが、今夏は想像を絶する暑さでした。そんな中、私は、長年住み慣れた家を引き払い、引っ越しを断行しました。大掛かりな断捨離を試み、いやが上にも暑い夏となりました。
やっと少し落ち着いて久々にペンを取ります。昨年に引き続きオンライン参加した日本自殺予防学会のことを少しご紹介したいと思います。(学会サイト:https://sites.google.com/view/jasp47oita/home)今年は大分にてハイブリット開催でした。
去る3月25日には、GCC第7回オンライン・ワークショップ、『コンパッション・アプローチ:終わりのない喪失・グリーフの癒しに向けて』 を好評のうちに終了しました。
他者と自分の双方にコンパッションを注ぐことについて、座学と演習でそのスキルを習得し、「自分を労ることの大切さを実感しました」というコメントが目立ちました。
新年を迎えて、年賀状に引き続き、初投稿させていただきます。本年も「グリーフの窓」をどうぞよろしくお願いいたします。
さてGCCでは、ここ2年間『コンパッション・フォーカスド・セラピー(C FT)』(他者と自分に親切にするセラピー)をテーマに掲げて来ましたが、2023年も引き続きこのテーマを追求していきたいと思っています。来たる3月にはまたオンライン・ワークショップ・シリーズ第7回を開催予定ですので、ご期待ください。
本年初投稿は、昨年暮れに観劇したミュージカル『聖なるかな』のご紹介です。
年の瀬も押しせまり、秒読み段階に入りました。皆さまお忙しくお過ごしのことと思います。
この一年間、グリーフ・カウンセリング・センターをご愛顧いただき、また「グリーフの窓」をお読み下さり、誠にありがとうございました。
今年を締め括るにふさわしい言葉は、「コンパッション」ではないかと思います。その意味は「慈愛」とか「思いやり」とか「親切心」などですが、カウンセリングにおいては一歩踏み込んで、『コンパッションとは、人の苦しみを理解して、和らげようとする勇気』であると言っています。
まさにカウンセラーに期待されるアプローチです。クライエントさんが語る苦しみに耳を傾け、できる限り具体的に「何がどうしてどうつらいのか」を分かろうとし、「どんな風に痛むのか」を想像し、その時点では一緒に苦しむと言ったら良いでしょうか?
そしてどうやったら、どんな言葉かけをしたら、クライエントさんに少しでも楽になってもらえるか、思考をめぐらし、想像力を働かせ、人智を尽くしてトコトン相手の苦しみと付き合うのだと思います。人は生まれながらにして、苦しんでいる人を見たら「コンパッション」を感じると言いますが、カウンセラーは感じるだけにとどまらず、それこそ勇気を持って一歩踏み込んでいきます。
GCCでは、去る11月末、「コンパッション」をテーマにしたワークショップを開催しました。演題は「セルフ・コンパッションの効用:自分に親切にするセラピー」でした。支援者として苦しむ人にコンパッションを向けることが効果的であるなら、自分が苦しい時に、同じように自分にコンパッションを向けたら楽になるという論理です。
言うはやすしですが、私たち競争社会に生きるものにとって、失敗したり、間違ったりすると、自己反省や自己批判をする習性が身について、なかなか「つらい」自分をいたわり、親切にし、励ますなどと言うことは出来ないのが普通でしょう。
ワークショップでは、ブレークアウトルームに分かれて演習を実施、「自分にコンパッションを降り注ぐ」コツをつかむ練習をしました。演習だけでなく、参加者が日々の生活で時々思い出して、実行して下さると「セルフ・コンパッション」が次第に身につくと思います。
ご参考までに、ワークショップの参加者から寄せられたコメントを引用させていただきます。主催者として、指導者として、とても励まされ勇気をいただいたメッセージでした。(ご本人から掲載についてご了解をいただきましたので)
『本日はありがとうございました。先生のパワフルなお話にいつも元気を頂いております。皆さんのお話から人間はいつ困難な状況に置かれるか分からないので、自分のセルフ・コンパッション力を高めておきたいと思いました。困難の渦中にいる私自身は、今日皆さんにシェアできて沢山労っていただき、とても癒されました。』(ワークショップ参加者・援助職)
皆さまどうぞ健康に留意されて、心穏やかで幸せな新年をお迎えになりますように。来年もGCCをよろしくお願いいたします。
(グリーフ・カウンセリング・センター代表 鈴木剛子)
9月9日から9月11日の3日間、第46回日本自殺予防学会が開催されました。熊本市民会館にて、コロナ禍で初めて対面による参加型、又オンラインでも参加できるハイブリット型でした。私はオンラインで参加しました。
この学会へ初めて参加したのは、2008年第32回岩手県大会のおり、現理事長の張賢徳先生に「グリーフケア」について講演するようにお誘いを受けたのがきっかけでした。あれから14年も経ったとは感慨無量です。あれ以来、できる限り、この学会には参加してきました。
コロナ禍以降、自殺者数が2年連続増加傾向にあり、本学会の開催意義が自ずと高まります。オン・オフライン合わせて、参加者数700名近い盛況ぶりでした。
中でも、児童の自殺者数の増加がたいへん気になります。2020年、小・中・高生の自殺者数は、過去最多を記録し(1980から統計あり)、499名に達します。2019年より100名増えています。(山田和恵・精神科医の発表から)
シンポジューム『COVID 19禍:増加する子供の自殺の背景と対策』では、精神科医、教育者、研究者らが銘々専門分野から発表しました。特に児童精神科の山田和恵先生による臨床現場からの警鐘には心を動かされました。
山田先生によると、2020年6月以降、医療機関で児童思春期の初診者が急増したそうですが、その要因として、政府が一斉休校した1〜5月(6月に分散登校開始)の負の影響が、6月に表面化したというのです。
児童たちは友だちや先生との接触を絶たれ、孤立、孤独、閉塞感に苦しみ、うつ状態に陥るものも少なくない。こうして精神的に追い込まれた児童が、希死念慮を持つようになったとしても不思議はないと。元々発達障害などメンタルヘルスの問題をもった子どもは、特に自殺ハイリスクと言えるのだそうです。
一方で、児童精神科の絶対数が不足しており、ハイリスクの子どもが治療を必要としても、子どもの精神科クリニックが満杯で診療を拒否されているとか。さらに、親をはじめ小児科の医師の中にさえ、「子どもはうつ病にならない」と思い込んでいるものがいると言います。何という由々しき状況。ペアレント・トレーニングや社会的啓蒙が不可欠なのだと、痛感させられました。
最後に、山田先生の紹介事例から:2ヶ月間に、二人の親しいクラスメートを自殺で失った女子高生、トラウマ・グリーフ反応に苦しみ来院したそうです。(元々は優等生で健康的)ところが、その子の学校では、教師は生徒たちに自殺の事実さえ公表せず、(死がなかった事のように振る舞う?)従って、生徒たちへのトラウマ・グリーフケアなどは一切ない。しかし、生徒たちは誰もが自殺の事実を知っているという。誠に不自然で非教育的な状況に驚愕を覚えました。
この事例、教育者の死と自殺に対する偏見が生徒たちを不必要に苦しめていることを明かしています。まずは教師たちへのグリーフケア教育が急務だと思います。
8月は、我が家の「命日月」です。二人の祖父、姉(2歳で死去)、そして母と4人の命日が続きます。 今回は母のことに触れたいと思います。しかし考えれば考えるほど、母親とはいかに大きな存在なのかと痛感し、追悼集を一冊献上する必要がありそうです。ここでは母のほんの一面を述べるに留めます。
昔々、私が若かった頃、ある時母は言いました。「私にとって、家族のために尽くすことが生き甲斐で、そのためには自分を犠牲にすることもいとわない」「親からそういう教育を受けてきたので」と。母はまさにそのように生きた人でした。母のあの言葉は何年経っても私の心にずっしりと残っています。
「良妻賢母」という言葉、今は滅多に聞かなくなりましたが、母はそれを絵に描いたような人でした。一方で私は、母には家族のためだけでなく、自分が本当にやりたいことをして欲しいと願ったものでした。
そういう母には、娘時代、コンサート・ピアニストになる夢がありました。母の父親(稲垣鉄郎)は、その夢を応援してか、ドイツへ出張した際に、娘(母)のためにシュタンウェイのピアノを購入して日本へ送らせたのです。母は、20歳までそのピアノで熱心にレッスンを受けていました。
私が物心ついた頃、母がベートーベンやショパンの曲を弾いていたのが、なんとなく耳に残っています。しかし母は結婚後、ピアニストになる夢を徐々に失っていったそうです。なぜかと聞いたら、「あなたのパパがピアノに全然興味がなかったから」と母は言っていました。
その後、日本は太平洋戦争に突入したので、母はピアノを楽しむどころか、一家で東京から秋田の山奥へ疎開することになりました。父親の形見であったシュタンウェイのピアノは、二束三文で手放したそうです。母にとっては断腸の思いだったに違いありません。
都会育ちの母にとって、疎開先の田舎暮らしは苦労の連続だったようです。ほんの一例ですが、山奥の家には水道がなくて、毎日、坂の下の泉まで手桶を天秤のように担いで、水汲みに行ったそうです。帰路は水の重さでヨタヨタ歩きになり、家に着く頃には水が半分くらいに減ってしまったそうです。無理がたたって母はとうとう身体をこわし、一時、義理の両親(当時、盛岡市在住)の家に身を寄せて、療養しなければならなかったそうです。
母の世代の人たちは、戦争がもたらす様々な苦難を強いられて必死で生きてきたのですね。それだけに、精神面で鍛えられたと想像できます。恐らく現代人が太刀打ちできない芯の強さがあるだろうと。
一方で、母には大正ロマンの香りを感じさせる一面がありました。いわゆるオシャレな人で、洋装、和装、どっちも粋に着こなしていました。欧米のファッション誌なども購読していたようです。母親自慢で恐縮ながら、長身で首が長い母は、ポスト印象派の画家、ヴイヤールの描く女性のイメージに近いと思っていました。(父親に似た私は、ヴイヤールの女性像とは似ても似つきませんが!)
母は又、手先が器用だったので、私には数え切れないほど、洋服を縫ってくれたり、セーターを編んでくれたりしました。戦後、物がない時代のことでした。今でもよく覚えていますが、母は赤いサンダル・シューズをどこからか入手して来たのです。そして私に履かせると、嬉しそうに眺めながら、「貴女にこういう格好がさせたかったのよ!」と満足げに語っていました。
今思えば、そうした細やかな母親の愛情を、私は一体どれだけ分かっていたのか、感謝していたのか、甚だ疑問があります。命日に際して母に謝りたい気分です。
最後に、8月には姉の命日もあると述べましたが、母にとっては最愛の娘を亡くしたことになります。母の父親(私の祖父)の命日が8月12日、それから一週間も経たないうちに娘・恵美子(2歳)は肝臓がんで命が尽きました。一週間に2回も葬式を挙げた母に対して、親戚の人たちはかける言葉もなかったと聞きました。
恵美子の死去について、母はあまり話そうとしませんでしたが、晩年あえて私が聞いたとき、「恵美ちゃんは、痛みで苦しんでいて、見ていても可哀想で、亡くなった時には、痛みから解放されて良かったと思った」と語ってくれました。そして「恵美ちゃんのことを、あの世でお祖父様が待っていて下さると、そう思えば、安心でもあった」と。
母の命日(8月23日)は、母が72年ぶりに愛する我が子・恵美子と天国で再会した祝うべき日とも言えるのです。
(鈴木剛子記)
8月15日、終戦から77年が経ち、今年も戦没者追悼記念式が武道館で行われました。参列者は先の戦争で犠牲になった方々の御霊の安寧を祈念し、平和の誓いを立てました。
国家の重要な記念日は、同時に父方の祖父の命日にあたります。8月12日には母方の祖父の命日を追悼したばかりですが、続いてもう一人の祖父について思いを馳せたいと思います。そのために、彼の自叙伝を読み直してみました。
祖父、田子一民(たご・いちみん) (1881〜1963)は、岩手県出身の国会議員でした。大正期には内務省(現総務省・国土交通省・厚生労働省など)の官僚として、昭和に入ってからは衆議院議員を長期にわたり務め、農林大臣や衆議院議長などを歴任しました。
田子一民の功績としては、1)かつて内務省の一局に過ぎなかった社会局を独立させ、厚生労働省の礎を築いた、2)社会福祉の啓蒙、社会福祉事業の制度化に奔走、などが挙げられ、日本の民主化、近代化に貢献したと言えます。
全国社会福祉協議会の初代会長に任命され、戦前戦後を通じ社会福祉の充実にも努めました。
私は幼少時代、祖父母の家の近くに住んでいたので、折にふれお訪ねしては可愛がっていただき、祖父はユーモラスで優しいおじいさまという印象でした。ただ漢文の手解きを受けた時、曖昧さを一切許さない厳しい人であると痛感しました。祖父は禅宗に帰依し、よく仏壇の前で読経をしていました。線香の香りが漂う仏間に、祖父の朗々とした声が響いていたのが耳に残っています。
さて彼が生涯を通して、労働問題、青少年の教育、母子家庭の福利厚生、貧困層への支援などに情熱を傾けた背景には、自身が父親を幼くして亡くし、極めて貧しい母子家庭に育ち、小学校低学年より丁稚奉公をしつつ卒業するなど、困難な生い立ちがあったからなのです。自叙伝にはそのことが書かれており、「(仕事柄)未亡人の困窮している状況に触れると、母を思い出して自ずと涙が込みあげた」とあります。
今回、自叙伝を読みながら、祖父が文才にたけ、感情表現が豊かなことに今更ながら感服しました。盛岡中学時代、文学青年だった由、同期の石川啄木らと共に会報を編纂していたその片鱗を彷彿とさせます。
特に敬愛していた郷里の大先輩、原敬(はら・たかし)首相が不慮の凶変に倒れた時のこと、自身のグリーフを綴った文章は真に迫るものがあります。大正10年11月3日、祖父は社会事業大会に出席のため大阪入りし、翌日4日に東京から関西に来られる原首相をお迎えすることになっていました。しかし首相はその日東京駅で青年に刺殺され帰らぬ人に。
その直後の心境を祖父は記しています。「もしも社会事業大会が一日遅れて開かれていたらば、同じ列車でお伴をし、身をもってお守りができたかも知れなかった。またもし首相が京都の大会に臨まれなかったならば、こんなことにはならなかったかも知れない〜とりとめなく無念の涙が流れた。しかし〜たとえお伴をしていても、刺される時には刺される。京都に臨まれなくても、狙われていればいつかは免れない。」
「私は心の中に、大きな空虚ができた感を深くした。どうしても諦め難い、泣くに泣けない思いであった」(伝記「田子一民」原さんの思い出P.P. 403)
原敬首相の刺殺事件は、今夏日本中を震撼とさせた安倍晋三元首相の銃撃事件と重なり、時代は異なれども、そうしたトラウマ体験を語る祖父のナラティブ(語り)が、私の胸に響きました。
ちなみに、原首相は平民宰相と言われただけに、故人の意志をついで、故郷で行われた葬儀は極めて簡素なものだったそうです。しかし祖父曰く「沿道に並び最後のお別れをする人々、長蛇の列をなして香華を手向ける人々、皆涙して心から冥福を祈る様は、如何なる華麗な大葬儀も遠く及ばぬ平民宰相らしい未曾有の盛儀であった」と。
この文章は、名誉や富には全く関心がなく、清廉潔白を貫いた祖父らしい、ものの本質を見抜いた表現だと思いました。
(鈴木剛子記)
去る8月12日は母方の祖父の命日でした。祖父は54歳で早逝し、残念ながら私はこの地上で会うことがありませんでした。しかし祖父のことは、母が折にふれ語ってくれたことや、祖父の「追悼集」を読むことにより、その人となりや生涯をイメージして来ました。
もう一つ祖父についての情報源は、吉村昭著『戦艦武蔵』(新潮文庫 2009)です。命日を記念してこの本を再読して祖父を偲ぶことにしました。会ったことがない人に対するグリーフ・ワークと言っても良いかもしれません。
本書は、「戦艦武蔵」という当時としては並外れた大型船の建造にまつわるストーリーで、その発端となった時代背景を書いています。1935〜36年頃、世界は海洋軍縮を放棄して、大国は戦艦保有の競争に躍起となり、戰(いくさ)ムードへと傾いていました。そんな中で日本は戦艦「大和」や「武蔵」の建造に着手しました。
さて私の祖父は「武蔵」の建造プロジェクト・チームに造船技師として、また三菱重工長崎造船所の副所長として最初から携わっていました。 本名は稲垣鉄郎と言います。(略歴:東京帝国大学機械工学科・舶用機関専修・同大学院・電気工業研究、英国、スイス、ドイツなどへ企業留学多数回)
「武蔵」サイズといえば、国会議事堂がすっぽり入ってしまう位だったそうです。(全長263M、 幅 38.8M、 排水量 68,200トン)巨大なるが故に製作者の苦労も並外れていたようです。例えば、船の側面をカバーする装甲板の厚みが40CM(平均の2倍厚い)、取り付けには特別なねじ釘とスクリュウドライバーが必要となり、ツールから特注というように…
更なる困難は、発注者が国の海軍省であること。受注者(三菱重工)は無理難題を覚悟の上、不可能を可能にするため徹夜につぐ徹夜仕事を強いられることもしばしば。その上、「武蔵」の建造計画は国家機密で、長崎造船所では作業場をシュロ製の覆いで遮蔽(シャヘイ)して、外部から作業状況が一切見えないように隠したのです。(今ならブルーシートとか使用するところ、当時苦肉の策でシュロを利用)大勢の技師、職員、職人、作業員が従事していましたが、プロジェクト・チームの数名以外は、何を作っているのかさえ知らされなかった。そうした秘密厳守が数年間保たれたのは奇跡に近いと思いました。しかしプロジェクト・チームの緊張感とストレスは如何ばかりだったでしょう!?
母から聞いた話では、祖父は頻繁に長崎から東京の海軍省へ呼び出され交渉の任にあったったそうです。当時長崎→東京間の鉄道移動には片道20時間は要し、母曰く、度重なる長距離移動が祖父の命を縮める一因になったとのことです。祖父は若い頃から野球、テニス、ラグビー、ゴルフなどをたしなみ、スポーツで鍛えた頑強な体躯の持ち主、誰もがもっと長生きすると期待したことでしょう。「武蔵」の完成を待たずに1938年8月12日に病死しました。(戦艦武蔵の進水式は1940年11月に挙行され、遺族としては、チームの方々と式典に立つ祖父の勇姿をどんなに見たかったことでしょうか?)
さて昨年8月、私はNHKのドキュメンタリー「戦艦武蔵」を視聴しましたが、元乗組員の方々(80代)が登場し「武蔵」の壮絶な最後の模様を語っていました。フィリピン・レイテ島沖で、数回にわたる米軍の航空機爆撃に耐え、とうとう不沈戦艦は沈没したと。その様を想像しながら、私はなんとなく「戦艦武蔵」が満身創痍で敵に立ち向かう「弁慶」のようだと思いました。
そして祖父が「武蔵」の痛ましい最後を見ることなく、天に召されて良かったと思ったのでした。(また祖父は、彼の死後7年目に、長崎の街が原爆で崩壊し7万人以上の尊い命が奪われた悲劇を見ることがなかった。救いとも思えるのです)
最後に、祖父は決して軍艦を作りたくて造船技師になったわけではなく、たまたま時代の要請でその任務を果たしたと思います。彼は、戦前にはたくさんの客船や貨物船を手がけ、海外の造船業界の人たちとの親交を深め、国際人であり、平和主義者だったと確信します。追悼集の寄稿文の多くがそれを物語ってくれています。
去る7月29日、スピリチュアルケアの研究者で臨床家の小西達也先生(武蔵野大学教授・日本臨床宗教師会理事)をお招きして、GCCではオンライン講座を開催しました。GCC認定カウンセラーやカウンセラー志望者など多数が参加し、活況を呈しました。
スピリチュアルケアの意味を理解し、臨床の現場(例えば緩和ケア・ホスピス病棟など)でどのように実践されているのかについて、ご経験豊富な小西先生からお話を伺い、学びを深めるのが目的でした。
まずスピリチュアルケアを理解するには、元になる用語「スピリチュアル」とか「スピリチュアリティ」という外来語の意味を知る必要があります。今回、参加者はそうした基礎知識を身につけて臨みました。
ここでほんの一部を簡単に紹介します。「スピリチュアル=spiritual」や「スピリチュアリティ=spirituality」の語源は、英語の「スピリット=spirit」です。スピリットとは「霊」のことです。「霊」の定義は、『息、命、風、生かす力、勢力、エネルギーのような人間にパワーを与えるもの』と色々に説明できます。(W. キッペス 1999, 2001)
霊の定義の中で「息」「風」「エネルギー」などを考えると、いずれも目には見えませんが、物理的にものを動かす原動力になりえます。たとえば、人が深刻な事態に陥り、魂のレベルで落ち込んでいるとき、スピリット=霊が働いてエンジン役になり、魂を起動させる〜ここで「魂」は、「精神」とか「心」と考えたら良いと思います。
とても短絡的ですが、スピリチュアルケアとは、人の「霊」を活性化し、魂を奮い立たせる働きと言えるのではないでしょうか?
さて、小西先生のスピリチュアルケアの定義は、極めて明解でわかりやすいです。「スピリチュアルケアとは生きることのサポートです」と! とするならグリーフケアとは「いとこ関係」みたいですね!
日本でスピリチュアルケアというと、末期患者さんのケアとして認識されていますが、米国で専門の資格を取得された小西先生いわく、スピリチュアルケアはもっと活用範囲が広いとのこと。例えば、教育機関、軍隊、消防団、MLB, 精神科などでも提供されているそうです。
とするなら、終末期の場面に限らず、人生における様々なクライシス(危機)に直面した人をサポートすること、それがスピリチュアルケアであると。最愛の人との死別はまさにスピリチュアル・クライシスであるゆえに、私たちグリーフ・カウンセラーは、自ずとスピリチュアルケアの提供者とも言えるのです。かつて「グリーフケアはまさにスピリチュアルケアです」と言われた本分野の先駆者、W. キッペス先生の言葉を思い出しました。
また日本では、終末期医療におけるスピリチュアルケアの提供者(チャプレンと呼ぶ)はほぼ宗教家に限られているようですが、小西先生はキリスト教の司祭でも、仏教の僧侶でもない、その意味でユニークなチャプレンです。先生のご講義は哲学的、論理的、実践的で、我々カウンセラーにとっては分かりやすく、引き寄せられ、スピリチュアルケアに親近感を持つことができました。
最後に、心に残った言葉を記して締めくくりたいと思います。スピリチュアルケアの提供者はケアの対象者と接する時、徹底して「自己のビリーフ=belief (信条、信念、信仰)」を脇におき、相手に一切の偏見を持たず、相手の考えを評価せず、まっさらな心で話を聞くべきです。GCCのカウンセラーがたびたび教えられ、実行すべく努力していることと一致しています。
最愛の人との死別ほどつらい経験はありません。一方で死別に匹敵するほどの、あるいは時としてそれ以上につらい喪失・グリーフがあることも確かです。
私はここ10年余り、喪失についての視野を広げ、死別以外の喪失にも目を向けるようにしてきました。たとえば、自身や家族の慢性的な疾病、障害、精神病、依存症などがそれに該当しますが、代表例としてアルツハイマー病があります。
アルツハイマー病といえば、通常、高齢者に特有の病気と考えられていますが、ごく稀に30〜50代で発症することもあります!いわゆる若年性アルツハイマー病です。当事者は、人生のまっただ中、働き盛り、社会的・経済的に重責を担い、将来の夢や希望もある、それだけに、この病気に罹患することで受ける打撃は想像を絶するものがあります。
ここでご紹介する図書、若井克子著『東大教授アルツハイマーになる』は、59歳でアルツハイマー病と診断された夫・晋氏の介護を、15年間、担った妻・若井克子さんの手記です。あるいは若井夫妻によるアルツハイマー闘病記録と言った方が良いかもしれません。
なんと皮肉なことか、夫は脳外科医、脳の機能や障害を誰よりも熟知しているゆえに『アルツハイマー病だけにはなりたくない!』と漏らしていたそうです。夫の胸中を痛いほど察している妻の苦しみが行間からヒシヒシと伝わります。
夫は、病気発症から暫くの間、急坂を下るように衰える脳機能に抗しながら、東大教授としての職務を果たそうとしていました。病気のことは隠して!針のムシロに座っているとはこの事でしょうか。本人は悪いことをしたわけでもないのに、失敗するのではないかと不安な思いで過ごす日々、なんと理不尽なことか、胸が痛みます。
認知症の患者はそのことを受容するのに長い時間がかると言われます。特に若年性となると失うものがあまりにも多く、病気を認めることは多数の喪失を認めることになるからです。仕事、収入、家庭での役割、生きがい、コミュニケーション手段(言語の喪失)、自立・自由・独立・自尊心・自信などと枚挙に暇がありません。これらを次々と奪われること、これほど過酷な経験があるでしょうか?
若井晋氏は病気の受容に5年かかったとあります。それだけ大切なミッションを担っていたという事でしょう。本のキャッチコピー「地位を、知識を、そして言葉を失うとき、彼は、そして家族はどうなるのか。」その答えは皆さんが本書を読んで見出していただきたいと思います。
晋氏がやっと決心して病名を公開した後、彼は当然、周囲のねぎらいの言葉を期待したでしょう。「ただ一言、『大変な思いをされたのですね』と言って欲しかった」と晋氏。しかし意外や意外、そのような言葉かけがなかったと。周囲も圧倒されてかける言葉に苦慮したかのようです。晋氏の孤独感が募ったことが彼の短い言葉から察せられます。
この病気、未だ原因が確定できていません。言い換えるなら、誰がかかっても不思議はないのです。とするなら、若年性アルツハイマー患者さんは、あなたや私の代わりに不治の病をおって闘ってくれている人と思えてきます。そんな人に決して疎外感や孤独感を感じさせたくありません。少なくともグリーフ・カウンセラーを志すものは、若年性アルツハイマー病患者になることで奪われたものがいかに膨大であるか、いかに困難な苦闘を強いられているか、多少なりとも理解すべきなんだと思います。(私自身を含めて!)
2022年5月22日〜27日
―ウトヤ島テロ事件から11年―死生学の最も権威ある国際学会(International Work Group on Death, Dying, and Bereavement) がノルウェーで開催されました。18ヶ月に一回開かれるこの学会は、世界5大陸を巡回し、本年はヨーロッパ大陸・ノルウェーに巡ってきました。
コロナ禍とウクライナの戦禍の中、最後まで開催があやぶまれましたが、大英断で決行でした。ただし、メンバーの半数は困難な状況ゆえに、不参加でした。過去7回参加した私も、今回は欠席しました。幸い、講演など主要なプログラムは、オンラインで配信されたので、メンバーは世界中どこからでも、視聴することができました。
中でも心を打ったトピックは、2011年7月22日、ノルウェーのウトヤ島で起きたテロ事件です。多くの若者を含む69人が銃乱射事件によって死亡。 この事件のサバイバーであるミリアムさん(当時15歳)がトラウマ体験を語ってくれました。
長い間フラッシュバックで苦しんだこと、その間、あたたかく見守ってくれた家族や友人たちに救われたこと、マスコミなどで特別視されることが嫌だったことなど、指摘がありました。そしてミリアムさんは、ある時から「自分の一生をテロ事件のせいで台無しにされたくない」と固く決心して、大学へ進学し、現在はかつての夢であった政治家として活躍しています。
ミリアムさんの講演に先立ち、折しも、米国テキサス州の小学校で銃乱射事件があり、子供を含む21名が殺害されたと報じられました。参加者は黙祷を捧げました。
2022年5月22日〜27日
―日本の死生学のパイオニアIWG の大会では毎回、過去1〜2年の間に亡くなったメンバーのために、メモリアル・サービスをとり行います。故人と親しかった人が追悼の言葉を用意し、読み上げたり、スピーチをしたり、音楽を奏でたりと、しんみりとしてあたたかい雰囲気が漂います。
私は日本人のメンバーということで、2020年9月に亡くなられたアルフォンス・デーケン神父様(日本の死生学のパイオニア)に捧げる哀悼の辞を書くようにと、責任者から事前に頼まれました。デーケン神父様には言葉では語りつくせないほどお世話になりました。夫との死別後、立ち直って、今日グリーフ・カウンセラーとして、また教育者として活動できたのは、ひとえに神父様のおかげです。心をこめて哀悼の辞を書きました。
カナダの死生学者、バッション博士が私の原稿を朗読してくださいました。
今年のゴールデンウィークは、コロナウィルスの勢いがようやく下降傾向になり、旅行自粛のムードが和らぎ、待ちかねたように、帰省やレジャーの人出で各地が賑わっているようです。テレビ報道で『3年以上会えていない両親に会いに行きます』などと嬉しそうに話す家族連れの声がよく聞かれます。
私も家族に会いたさ一心から一大決心をして、GWの少し前に、英国在住の娘一家を訪問しました。コロナ禍とウクライナの戦禍のもと、刻一刻変わる渡航状況に戦々恐々としつつ、ようやく無事に英国まで飛べた時には、感動でした。家族に会ったら一気に緊張が解け再会を喜び合いました。
当地は今や春爛漫、色とりどりの花々、若葉もゆる木々、珍しく好天続きと、3年間じっと耐えて待ったご褒美をもらった気分で、自然の美に心を癒されています。
幸い、GCCの活動は全てオンライン化したので、おかげさまで、講義もカウンセリングも滞りなく行うことができています。
GCCの活動が全てオンラインに移行した経緯は、他ならぬ新型コロナウィルス感染拡大による「緊急事態宣言」の施行(2020.4月)に端を発しています。私たちは当時、「グリーフ支援のためのマインドフルネス」という5回シリーズの講座を実施中でした。
マインドフルネス・アプローチとは、トラウマやグリーフの癒しに有効なストレス低減法というもので、金城学院大学教授・宗方比佐子先生にご指導を仰ぎました。1〜2回は感染予防対策をしながら、教室で実技なども行いましたが、やがて東京都から不要不急の外出は避けるようにとの指示が出され、講座は中断を余儀なくされました。
このように緊迫した状況で、宗方先生はさすがマインドフルネスの専門家だけあって、危機に直面して「ものに動じない」姿勢を貫いておられました。「講座は可能な限り対面で続けましょう」と主張され、その勇気に感服したものです。講座の後半はオンラインでの実施となりましたが、参加者たちは継続できることでたいへん満足した様子でした。
コロナ禍で不穏な空気に支配される日々、マインドフルネスの実習では、いっとき、不安や心配から開放されるというメリットがありました。なぜなら、この訓練は、呼吸だけに集中し、「今、ここ」にいることに意識を向け、心配や雑念をやり過ごす、という方法を習得するのが目標だからです。私たちGCCの一同にとってこのタイミングでマインドフルネスに取り組んだことが、偶然とはいえとても幸運だと思えたのでした。
カウンセリングに関しても、海外のカウンセラー仲間が次々とオンラインでのセッションを開始していることを知り、私は、必要とされる方々のニーズに応えられるならと、オンライン・カウンセリングに踏み切りました。一つの決め手は、オンライン・カウンセリングは「ザ・ベスト」ではないかもしれないが、「ザ・セカンド・ベスト」(次に良いもの」という専門家たちの見解でした。もちろん賛否両論があって当然で、中にはインターネットは苦手という方もありますが、オンラインで来談した方々も「思いのほか自然に安心して話せた」「良かった」と言う評価でした。まずは好評と言えるでしょう。
さて「ザ・セカンド・ベスト」(次に良いもの)でよしとするという考え方は、WITHコロナだからこそ生まれ、次々と襲う変化球に対応を迫られる今だからこそ、注目に値すると言えるでしょう。できないことを託つのではなく、できることを探すことが大切なのだと、コロナ禍で学んだ気がします。それはまさに、死別喪失後に再起していくためのヒントにもなりますね。
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